高村光太郎記念館です
ススキの穂も伸び、景色は随分秋らしくなりましたが、こちらも暑さは続いています。毎日暑いですね。が合言葉のような日々です。
と言われ、早速調べに、自転車で向かいます。
光太郎が野菜を作った3畝の畑の向かいですが、、、、
昨年、光太郎の弟、孟彦氏のご子息であります貞彦氏から、光太郎の父光雲の木彫を、花巻市に寄贈していただきました。
「鈿女の命」(うずめのみこと)というものです。
今、急ピッチで作業勧めています。
また近況をお知らせいたしますのでお楽しみに。
高村光太郎記念館です
ススキの穂も伸び、景色は随分秋らしくなりましたが、こちらも暑さは続いています。毎日暑いですね。が合言葉のような日々です。
と言われ、早速調べに、自転車で向かいます。
光太郎が野菜を作った3畝の畑の向かいですが、、、、
昨年、光太郎の弟、孟彦氏のご子息であります貞彦氏から、光太郎の父光雲の木彫を、花巻市に寄贈していただきました。
「鈿女の命」(うずめのみこと)というものです。
今、急ピッチで作業勧めています。
また近況をお知らせいたしますのでお楽しみに。
暑いですね。ここ花巻市太田もグングン気温が上がっています。
光太郎が住んだ頃は、一面原野だったようで、こんな大きな木が近くになかったようです。
でも、裏は山ですから、木陰で休んだりしたのでしょう。
現在、ここ高村山荘と呼ばれている光太郎が住んだ住居の近くに池があります。
ここには春、黒サンショウウオの卵がずいぶんたくさん見られました。
近年数が少なくなり(鳥が住みすいたりして餌として狙われています)環境整備の方がここから卵を自宅に持ち帰り,ふ化させて持って来てくれました。
小さい生物です
地区の老人クラブの方々がお花を植えて除草もして下さり、いつもきれいな畑になっています
かぼちゃの花などは「とても美しい」と日記にも書いており、食事の前に眺めたりお吸い物に入れて楽しんでいます。
高村光太郎記念館です
今日は8月10日、75年花巻が空襲に会い市街地が燃えた日です。
光太郎は当時、宮沢賢治の実家に疎開して逗留していました。
場所は現在豊沢町という地名になっています。その周辺はほとんどの家屋が全焼したそうです。
当時の光太郎の日記が残っていますので10日分を紹介します
8月10日金
晴 午前5時サイレン、空襲。花巻町に爆弾落下、銃撃あり。館あたりとおもふ。艦載機なり。9時半頃なり。(花巻町初襲撃)。奥より胡瓜、玉葱、青菜をもらふ。<清六さん壕中にて無事>
〔午後1時過ぎより空襲、爆弾、焼夷弾。花巻町過半焼失。宮沢家も類焼。余は始め水かけ。後手まはり、仕事道具を壕に入れて、校長さん宅に避難、校長さんかけつけ来るらる<(千代田さん火傷)>〕
筑摩書房高村光太郎全集より
奥よりというのは、当時宮沢家の事ですね。離れに住んでいましたので、ご家族からお惣菜や材料を頂いています。
清六さんというのは宮沢賢治の弟です
校長さん 佐藤昌(さかり)さん。花巻北高校の初代校長です。光太郎があったときには定年してました。ご自宅が高台(鳥谷崎神社周辺)にありましたので延焼にあわず、その後1か月光太郎はこの佐藤宅にお世話になります。
千代田さんというのは宮沢家に住んでいた書生です。
朝、昼と2回も襲撃され、光太郎も水をかけ、道具を守った事が分かります。先日清六さんのお孫さんにあたる和樹さん(現林風舎代表)から光太郎から防空壕を掘ったほうがいいと言われ、そのお陰で、賢治の作品を守ることができた、というお話を聞く機会がありました。この空襲で光太郎は2回空襲に会うことになります。
それから2か月後にここ太田村に来て1人の生活を始めることになります
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