高村光太郎記念館です
今日は8月10日、75年花巻が空襲に会い市街地が燃えた日です。
光太郎は当時、宮沢賢治の実家に疎開して逗留していました。
場所は現在豊沢町という地名になっています。その周辺はほとんどの家屋が全焼したそうです。
当時の光太郎の日記が残っていますので10日分を紹介します
8月10日金
晴 午前5時サイレン、空襲。花巻町に爆弾落下、銃撃あり。館あたりとおもふ。艦載機なり。9時半頃なり。(花巻町初襲撃)。奥より胡瓜、玉葱、青菜をもらふ。<清六さん壕中にて無事>
〔午後1時過ぎより空襲、爆弾、焼夷弾。花巻町過半焼失。宮沢家も類焼。余は始め水かけ。後手まはり、仕事道具を壕に入れて、校長さん宅に避難、校長さんかけつけ来るらる<(千代田さん火傷)>〕
筑摩書房高村光太郎全集より
奥よりというのは、当時宮沢家の事ですね。離れに住んでいましたので、ご家族からお惣菜や材料を頂いています。
清六さんというのは宮沢賢治の弟です
校長さん 佐藤昌(さかり)さん。花巻北高校の初代校長です。光太郎があったときには定年してました。ご自宅が高台(鳥谷崎神社周辺)にありましたので延焼にあわず、その後1か月光太郎はこの佐藤宅にお世話になります。
千代田さんというのは宮沢家に住んでいた書生です。
朝、昼と2回も襲撃され、光太郎も水をかけ、道具を守った事が分かります。先日清六さんのお孫さんにあたる和樹さん(現林風舎代表)から光太郎から防空壕を掘ったほうがいいと言われ、そのお陰で、賢治の作品を守ることができた、というお話を聞く機会がありました。この空襲で光太郎は2回空襲に会うことになります。
それから2か月後にここ太田村に来て1人の生活を始めることになります
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