2024年2月25日日曜日

ビックイベントその1

いつも当ブログを訪問してくださり有難うございます。

私たちの小さな、小さな光太郎の顕彰活動が少しづつ目にとまり、2月は2回もお話させていただくことが出来ました。

2月16日、岩手県立花巻南高校で「高教研国語部会中部支部」よりご依頼があり、

「こうたろう散歩道ー山小屋暮らしの高村光太郎。」

と題しまして講演させていただきました。

現役の高校の国語の先生にお話しを、という課題は私達にはなかなか、ない事です。まして1時間以上のお時間をいただきまして、頭を悩ましました。

出来る事を、という事でみんなで講演の合間に寸劇も入れました。

光太郎がお茶を入れる時に水にこだわり泉に水を汲みに行き、

いつも野菜や豆をいただく村人と会話を楽しみ、当時村では珍しいコーヒーをご馳走したり、

行事のたびにお餅や赤飯をいただき、野菜作りの師匠からコツを聞き

お礼に雑誌やお菓子を用意している光太郎、当時珍しいものばかりでした。

皆さん自分の家族が残した昭和の衣装を探しての熱演です

私たちの1番若手のホープは、分教場の女先生です

手紙や荷物を山小屋迄届けてくれたり、光太郎が方言の詩を書いて、この先生になおしてもらいました

分教場時代に教員をしながら光太郎のお世話をした、佐藤勝治先生役、私たちの代表です。

前日のリハーサルが都合わるく、ぶっつけ本番でしたが、何とか危機を乗り越えました。

盛岡から吉田幾世が婦人之友社より、光太郎の様子を見てくるように、と依頼されます

光太郎の大好きな牛鍋の食糧を持って5キロの山道を歩いてきます。

そこを勝治先生は光太郎の体を気遣って合わせてくれません。

問答の末、許してくれるという場面。

ちょっと緊張して声が小さかったかもしれませんが、何とか無事勤めました。

これも私たちのみんなの力です。

光太郎を愛し、そして教えを守り続けている、山口地区の皆さん
1年の行事として60年以上も取り組んで来た事も紹介させていただきました。

最期に高村山荘の横にある詩碑の

「雪白く積めり」を朗読して、幕を閉じました。

この詩は初めてという先生もいらして、これを選んでよかった、と思いました。

いつも、生徒に国語を教えている先生方に何をお話ししよう?と悩みましたが、私たちの知っている光太郎の姿が1番と思い紹介させていただきました。

中部だけで15校あるそうです、ありがとうございました。




 

2024年2月10日土曜日

光太郎の山小屋(厳冬篇)

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2月になりましたが、いつもは雪に埋もれてスキー大会など開催される月ですが、ご覧のように雪は全くありません。降っても春の雪のようにすぐ消えてしまいます。朝は零下5度ぐらいに冷える日もありますが、日中の気温が高く、白鳥さんには居心地が良いのでしょうか?青く見える所は麦畑のようです。

先日首都圏などが雪が降って大変な様子を見ましたが、こちらは晴れでした。

70年以上前の太田村の2月の光太郎のある日です。

もう2月になりましたが、いよいよ寒波が来て、1月29日には最低気温零下20度になりました。それ以来ずっと零下の日が続いています。しかし氷がつよく張るだけで小生のからだには大して感じません。綿入着物にいつかのドテラを引っかけています。雪の中はツマゴを穿いて歩きます。此の頃は月が雲の上にあるので夜もうす明るく煙ったように吹雪が吹きしきる景色は実に見事です。入り口の引戸は夜になると凍りついて中々開きません。急須の蓋も凍りついて、湯を上からかけないととれません。何でも皆1度づつ温めてから使います。火はまことにありがたいもので太古の人が火を神聖視していたわけがしみじみわかります。

2月3日付茨城県取手町の宮崎稔宛の手紙から抜粋(筑摩書房高村光太郎全集より)

零下20度という寒さは、私は体験したことはありませんが、冷える時は暖房を強くしてもどこか冷え冷えとして、朝、会う人々に今日は冷えたねが合言葉になります。

今年はわが地方はまだ零下2桁になっていません。

光太郎の住まいは、囲炉裏をコタツにしていたようですが、急須の蓋も凍るとは、現在では外にいるのと同じですね。

吹雪の雪が積もった雪の上を舞うのが美しいと手紙や日記に書いていますが、東京育ちの光太郎には自然のすべてが美しく感じ、又その表現がさすが芸術家と思うことが沢山あります。軒雫の音や、開拓の屋根から上る朝炊きの煙あおくたなびく様子とか、日記や書簡を読みますと、その都度発見しております。