2023年11月2日木曜日

宮沢賢治⇒高村光太郎⇒吉田幾世

いつも当ブログを訪問して下さりありがとうございます

ブログがすっかりお休み状態になり色々情報がたまってしまいました。

まず、11月1日の宮沢賢治イーハトーブ館で行われた

「続光太郎はなぜ花巻に来たか?」の講演会の様子から、イーハトーブ館は賢治記念館の下の方にあります。200名ぐらいの収容数があるホールがありそこで催されました。


今回は第1部、地元太田山口地区の光太郎を知る方々と、小山弘明氏と宮沢和樹氏を交えて当時の光太郎の様子と、光太郎と宮沢家のかかわりなどを中心にお話していただきました。

山口では小学校に光太郎がよく来ていた事、子供達には優しく親切だった事、

水をもらいに行ってもすぐくれた事などをお話してくれました。

山口小学校は、光太郎が亡くなってから毎週ごみ拾いをしていたそうです。山口地区の方たちも山荘周辺の整備にはいつも沢山の方たちが労力を惜しまず協力していただきました。

今の記念館や山荘がきれいに残っているのは地元の方々の70年以上の奉仕のたまものですね。

次の2部には、光太郎と交流があった阿部家のご子息で花巻農業高校で教鞭を取られていた阿部さん

高校生の時文芸部の部員として光太郎に会いに来たという菊池さん、

地域おこし協力隊の方、光太郎のファンで光太郎の文を英訳して観光に貢献した森川さん3名がそれぞれ光太郎と関わった様子をお話してくださいました。

光太郎が花巻に来て、リンゴの美味しさにびっくりし、リンゴが大好物になります。そんな様子などや、高校生の菊池さんは当時の山荘の様子や光太郎の言葉を、また森川さんは光太郎が興味を持った温泉の様子を、今の温泉の様子のようにお話してくださいました

実はこの講演、太田地区振興会で開催しております。

今度は続続編を是非花巻市で開催していただきたいですね。私達やつかのもりLLCも受付やその前の準備のチラシや垂れ幕などに協力いたしました。

クッキーや切手シートのプレゼントもありました。


宮沢和樹氏が資料として宮沢賢治が高校、今の岩手大学に頼まれて作りかけた詩を提供して下さいました。これは賢治が未完成のままだったものを弟の清六氏が光太郎と一緒に完成させた作品なそうです。
これは賢治の作品ではないという事で全集には載っておらず、岩波文庫の方に掲載されているそうです。
光太郎は戦犯にこそなりませんでしたが、戦時中沢山の詩を書きそれを支えに若者が戦地に赴いたことに大変な責任を感じていましたが自分のように迷わず新しい世界を作ってほしいという願いが込められているような気がします。

さて、そして本日、私たちが企画に携わった、「光太郎と吉田幾世」の企画展の特別講座があり、久しぶりに記念館に来ました。

すっかり秋です。ここから山荘を見ると光太郎が住んでいるような雰囲気です。

今日は小山先生の講演です。

吉田さんが自由学園の卒業生であって現在も現存する雑誌「婦人之友」の記者もしており、そして「婦人之友」に光太郎は約100年前から投稿していた。という縁もありました。

そして奥さんの智恵子夫人も投稿しておりエプロンの型紙などもありました。興味深いですね。

光太郎が1年通じて記事を載せたりする出版社はなかったそうで、光太郎にとって特別な出版社であったとのことです。

また、吉田さんが光太郎の体を心配し、栄養の摂れる食品を持ち、山口に何度も訪れます。

そのうち生徒を連れて訪問し、お土産にサンドウィッチを作ったり、座布団に山野草の花を刺繡して差し上げ、光太郎もまた卒業式に参加したりホームスパンの先生を紹介したりと深い交流があったようです。

企画展では、光太郎が吉田さんに送った書などが展示されています。
智恵子抄の一部分の言葉を贈っているのは大変珍しいと、小山先生のお話でした。
又、光太郎の作品が掲載された「婦人之友」、その号を盛岡スコーレ高等学校が保管していたものを展示しています。70年以上も前の本ですね。

現在の生徒が作っている作品やホームスパンが出来るまでの様子などを展示しています。
是非是非足をお運びください。
 

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